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【Part64 日本の誇れる先人 新島襄を語る 後編】は約1時間1分の音源です。
・生涯寄付集めの人生だった
・官学と私学の考え方の違い
・明治7年に帰国 久々に両親にあう
・私立の建学精神
・大阪での私塾開業は出来なかったが、京都府大参事(副知事)・槇村正直(まきむらまさなお)、府顧問・山本覚馬(やまもとかくま)の賛同を得る、強運新島
・そのお蔭で、明治8年官許同志社英学校を開校し初代校長に就任する。
・最初は先生2人生徒8人だったが、翌年70人になる
・学校内ではキリスト教を教えないと府に念書を書く(豆腐屋の二階で教える)
・1876年1月3日山本覚馬の妹・八重と結婚する
・豆腐屋で教えていた訳
・熊本からの編入者の一人、徳富 猪一郎 徳富 蘇峰(とくとみ そほう)ともいう
・新島に5800坪の土地を提供した山本 覚馬とは?(注・必)
・各藩に山本覚馬ありと言わしめた
・1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いの時、京に残り薩摩藩に捕われる 幽閉中に建白書「管見」を口述筆記し藩主に上程、これを読んだ小松帯刀(こまつたて わき)、西郷隆盛らは益々敬服、一層待遇を良くしたという
・慶応4年6月 建白書(管見)を新政府に提出
・覚馬の建白書にそのまま乗っかった明治政府
・1890年(明治23年)新島47才で死去の後、同志社臨時総長として発展に尽力する
・1892年(明治25年)心眼の人・山本覚馬 64歳で死去
・二代将軍 徳川秀忠の隠し子の秘密
・秀忠の隠し子(幸松)を命をかけて守った武田信玄の次女である見性院
・幸松が初代会津藩主 保科 正之(ほしな まさゆき)になる
・武田の直系、武田 斐三郎の活躍、文政10年9月15日(1827年11月4日) - 明治13年(1880年)1月28日)
・科学者でもあった斐三郎(緒方洪庵・佐久間 象山)にも学ぶ
・国産の帆船を造り生徒らとロシアに修学旅行に行く
・斐三郎の素晴らしい弟子たち
・明治8年グラント元米国大統領が陸軍士官学校での斐三郎の授業を参観して賞賛した。
・陸軍を指揮した斐三郎
・このような素晴らしい方々との縁があった新島先生
・徳富 猪一郎の新島に対する印象「新島先生は頭の人ではなかった、心の人であった」
・新島の生涯の目的
・明治12年政府の徴兵令に対し私学との差別で強く抗議する(信念の人)
・新島のささやかな楽しみ
・明治20年6月待望の仙台東華学校(とうかがっこう)ができる
・1887年8月お世話になった岳父ハーディー氏が亡くなる
・明治21年京都知恩院に650名以上の人が集まる中、同志社設立の主意が発表される
・明治14年山城田辺に南山義塾が開設、新島襄も祝辞を述べる 100年後に同志社田辺キャンパスが出来る
・同志社設立の意義が回りの人々に段々と理解されていく
・明治22年11月群馬県前橋での募金活動後、腹痛を訴え倒れる
・死ぬ二日前、枕元で八重・徳富蘇峰・小崎弘道に10か条の遺言を託す
・1890年(明治23年)新島襄享年47才で死去、京都東山若王子(にゃくおうじ)山頂に葬られる
・新島襄永眠30年後、大正9年に同志社大学設立になる
・新島が目指した真の自由とは
・日本の未来を心配していた新島
・明治六大教育者の一人(新島襄)
・文豪・徳冨 蘆花の兄・徳富蘇峰の「近世日本国民史」全100巻 他の文豪らにも愛読されていた
・兄・徳富蘇峰と弟・ 蘆花との仲
・縁の大切さ
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